龍光寺の沿革
HISTORY OF RYOKO-JI
室町時代、応永30年(1423)正月、称光天皇の勅により伊勢国司・北畠満雅を開基として国家安泰を祈願する為に創建された勅願寺です。
毎年3月のお釈迦様のご命日(15日)前に「伊勢路に春を呼ぶまつり」と謳われる『寝釈迦まつり』(涅槃会)が催され、寺宝展の他、街には屋台や植木市など約200店が並び参拝に訪れる多くの善男善女で賑わいます。
伽 藍
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本堂
現在の本堂は、火災や震災の難を経て明治13(1880)年、39代潜溪令濟和尚が建立しました。天井には當山の40代法山文荷和尚作の縦2.5軒・横10間、畳にして50畳敷きの「大雲龍図」が描かれています。御本尊は「釈迦如来座像」、脇侍は「迦葉尊者」と「阿南尊者」です。
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山門
仁峰和尚の遺願に応じ、1967年に42代宗峰和尚が名古屋から移築したものです。以前の詳細は不明ですが中央には織田家の家紋があり、その由緒を感じさせます。
平成27年、伊勢の建設会社・扇光建築の中西光雄氏が当山の寝釈迦まつりに参拝し、宗峰和尚に金剛力士像(仁王)の寄進を申し出、高さ3メートルの金剛力士像一対を自ら制作しました。しかし平成29年12月31日に宗峰和尚が遷化、平成30年(2018)11月29日、師の一周忌に併せ山門に安置されました。
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庫裡・書院
明治29(1986)年、39代潜溪令濟和尚の代に建立されました。元の書院は昭和47(1973)年に焼失し、現在は三重県文化財の「坐忘亭」が建てられています。
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坐忘亭
元熊本城主の細川家の江戸屋敷にありましたが、細川家がお家お取り潰しの危機に遭った時、時の幕府の若年寄本田忠統公(神戸本田家初代)に救われ、その恩に報いるための礼の一つとして贈られた数寄屋風書院です。(1973年に三重県文化財に指定)
後に42代宗峰和尚が引き取り移築復元、焼失した書院の跡池に1976年に落成しました。現在は当山に伝わる茶道 珠光流を主に年に数回茶会が開かれます。
伊勢路に春を呼ぶ
寝釈迦まつり
(涅槃会)
NEJAKA MATSURI
伊勢地方北勢最大級のお祭りといわれ、例年お釈迦様のご命日(涅槃会)の3月15日前の土日を中心に3日間行われます。
当寺の大本山東福寺の画僧・吉山明兆(兆殿司)が描いたといわれる畳にして16畳敷きの『大涅槃図』には、魔物として扱われ涅槃図に描くことを許されなかった猫が描かれており、当時大きな問題になったことから龍光寺の涅槃会が有名になったといわれています。
まつりの3日間は、本堂での「絵解き法話」を始め、三重県文化財「銅造阿弥陀如来立像(鎌倉後期)」、同県文化財「書院 『坐忘亭』(神戸藩本多氏初代忠統公の書院)、鈴鹿市指定文化財「木造阿弥陀如来立像(平安後期)」、豊臣秀吉、並び徳川歴代将軍からの朱印状や朱印籠などの寺宝が公開され、参道や街には約200店舗の露店、植木市などが並び賑わいます。